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T's STUDIO:FROM USA

FROM USA〜アメリカ在住トレーナーからアスレティック・トレーナー最新情報をお届けします

上松大輔 MS,ATC

新潟県出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒後、1999年9月に渡米。University of Pittsburghにて学士、ATC取得。Ohio Universityにて修士号取得。
現在はBrigham Young Universityにて野球部の担当である。
※MS:大学院修士課程修了
※ATC:全米アスレティック・トレーナーズ協会認定アスレティック・トレーナー

5回にわたって、ブリンガムヤング大学の上松大輔氏にアメリカのアスレティック・トレーナー教育制度を中心にご紹介頂いたこのシリーズも最終回となりました。前回までの各教育レベルや制度の話を含めて、米国においてトレーナーに対する教育、アスレティック・トレーニングが今日まで発展してきた理由は何か?大学スポーツを取り巻く環境や考え方を踏まえて語って頂く。

カレッジスポーツを取り巻くフィロソフィー

のアメリカでの経験の中で最後に特筆しておきたいことのひとつとして、アスリートに提供される多種多様なサービスの中の、あくまでその一つとしてアスレティック・トレーニングが存在するということがあります。アスレティック・トレーニングを含めて、日本とは全く異なったアスリートそしてスポーツに対する見方、それらを取り巻く環境がアメリカには存在します。そしてその背景にある「(カレッジ)スポーツを取り巻くフィロソフィー」は、アメリカのカレッジスポーツ界に最も端的に体現されていると感じています。 学生アスリートを中心に置き、コーチをはじめとする周囲のプロが、できるだけアスリートへの負担を軽減し、ベストパフォーマンスを引き出すために最大限の努力をする。アスリートへのサポートを職業とする人々が多く存在し、それを融合的に、そして最大限に生かす制度・施設が整備されている。そのバックボーンにある「カレッジスポーツを取り巻くフィロソフィー」とはどのようなものなのか。きっとこのような環境・考えを当然としているアメリカ人はその存在にすら気付かないものかもしれません。また、このような議論は、「その国民またはその大学にとって、スポーツがどんな意味をもっているのか」というところまでの話であり、それを言葉で表現するのは困難なのかもしれません。

レッジスポーツを取り巻く制度的な例を挙げれば、スポーツ奨学金制度、スタディアワー(学生アスリートが勉強のサポートを受ける時間)、練習時間の制限など、カレッジスポーツを取り巻く様々なシステムが存在します。その一端が感じられる格好の具体例として、私が現在働いている野球部では、オフシーズンとなる秋学期にはチームとしての練習期間が合計5週間、そして週に最高25時間までとNCAA(全米大学体育協会)によって制限されています。その他の数ヶ月間は週に最高5時間、コーチ一人に対し選手が一度に4人までしか集めることができない(チーム練習ができない)という制約が同じくNCAAによって課されており、コーチは大学のアスレティック・デパートメント(体育会を司る大学内の部署)に対して、選手個々の練習時間を記録したものを週ごとに提出することが義務付けられています。このようなNCAAによる規制はもちろん野球に限った話ではなく、学生への教育機会を保障するために、それぞれのスポーツのシーズン、特性を考え、すべてのスポーツに実施されています。学生アスリートに提供される環境・サービスの面においては、トレーニングルーム、ウエイトルーム、ロッカールームなどの施設に加え、コーチ、アスレティック・トレーナー、スポーツドクター、S&Cコーチ、エクィップメントマネージャー、スポーツ栄養学者、スポーツ心理学者などのサービスがあります。具体例としては、学生アスリートには個人のロッカールームが与えられ、選手には練習着が大学によって支給されるとともに、エクィップメントマネージャーが毎日洗濯した練習着をそれぞれのロッカーに準備しています。また各チームには最低1名のATCと複数の学生トレーナーが配属されています。

本でもJリーグなどのプロリーグが新たに発展するに伴い、大学スポーツの役割が終わったかのような議論がしばしばありますが、私個人としては、大学スポーツそして大学教育軽視の風潮が日本スポーツ界にできることは、アスリートの引退後の生活・セカンドキャリア、およびそれらのスポーツの発展を考えた場合、非常に危険なことだと思っています。特に、スポーツだけで一生の生活が保障されるほどの所得を得ているのがプロ野球とプロサッカーリーグのごく一部の選手であり、またエリート大学スポーツの場が関西と関東の私立校という極めて限られているスポーツ・社会環境ではなおさらだと感じています。エリートアスリートの多くが高校卒業後にすぐにプロの世界へと進み、大学教育を受ける機会が失われている現状、そして大学においてエリートアスリートとしての可能性を追求するにはごく一部の私立大学に進学するしか選択肢が存在しないこと、そしてその大学で与えられる環境が必ずしもエリートアスリート育成にとって好ましいものではないという現状は、果たしてアスリートにとって、そのスポーツの発展にとって好ましいことなのか。アメリカにおいても大学を経ずにプロの世界へと飛び込む傾向がありますが、それは極々限られた小数の話であって、あくまでも圧倒的な主流は大学スポーツを経由しているとともに、その選択肢は地方の州立大学など様々な選択肢が与えられています。また、その大学で与えられる環境は、プロのそれに劣らず、エリートアスリートとしての可能性を追求するに充分なものがあります。

た、最近では日本の高校において、競技者育成に重きを置いたスポーツ専門コースが設立されているという話を聞きますがが、私はそのような方向性にも違和感を覚えざるを得ません。アメリカに来てから多くの学生アスリートと働く機会がありましたが、プロとしてのキャリアの可能性の有無に限らず、スポーツ以外・以後のキャリアを考え、スポーツを通じて得られる奨学金をあくまでその教育機会を得るための手段として考えている多くのアスリートに出会うことがありました。そのような人生設計、バランス感覚を失わせない努力が、アスリートを受け入れる学校および指導者には重要ではないかと感じています。そのような意味では、日本の(大学)スポーツを取り巻く環境・フィロソフィーにも問題があると思いますが、サービスを受ける側にある日本の選手、「体育会」という学問軽視の風潮が強い閉鎖的な世界を作ってきた側にも問題があるのかもしれません。このことは、日本でスポーツが経済、医科学、心理学など、様々な学問として扱われてこなかった原因の一つではないかと感じています。

「(カレッジ)スポーツを取り巻くフィロソフィー」とは、前述したように、まさしく「その国民またはその大学にとって、スポーツがどんな意味をもっているのか」ということと繋がっていると感じています。そして、あくまでそのスポーツを取り巻く環境・フィロソフィーの一部分でしかないはずのアスレティック・トレーニングが、日本の現状のように全体的なシステムと分離・独立した形では発達することは難しいと考えています。なぜなら、上に述べてきたようなフィロソフィーの中で、様々なシステム、施設、サービス、そしてスポーツに対する考えがあってこそ、アスレティック・トレーニングの重要性が認識されるとともに、それが発展してきたと考えているからです。

「(カレッジ)スポーツを取り巻くフィロソフィー」、または初回でお話しした「アスレティック・トレーナー、ひいてはアスリートを取り巻くフィロソフィー」、そしてそれらのフィロソフィーが具現化されたシステム・組織を理解、共有する人々が増えることこそ、日本のアスレティック・トレーナーという職業の発展にとって重要ではないかと実感しています。

後に、初回で紹介した恩師の言葉をもう一度引用してこの連載を終わりたいと思います。

「アスレティック・トレーナーがなぜアメリカで発展してきたのか。アスレティック・トレーナーを取り巻く環境とはどのようなものなのか。アスリートにとって理想的な環境が与えられていると言われるアメリカでは一体どのような環境が提供されているのか、またそれはどのようなフィロソフィーに基づいているのか。そのようなアメリカの『アスレティック・・トレーナー、ひいてはアスリートを取り巻くフィロソフィー』を理解することなしには、いくら解剖学、生理学、障害の評価法などをマスターしたとしても、アメリカ発のアスレティック・・トレーナーという職業を理解したとはいえない。また、それは同時に日本のスポーツ現場に大きく欠けている概念だと思う。」

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